- 出演者
- 藤森慎吾(オリエンタルラジオ) 小泉孝太郎 黒柳徹子 高嶋ちさ子 森泉
ファッションデザイナー・森英恵は今年生誕100年。戦後の日本でファッションデザイナーが認知されていなかった時代からファッションで世界を魅了。日本人初の偉業を成し遂げるなど世界が認めた日本人女性。今夜は日本人なら知っておくべき森英恵の偉業に迫る。
ゲストは森英恵の孫・森泉。黒柳徹子と森泉は森英恵デザインのドレスを着用。黒柳は「ザ・ベストテン」では毎週森英恵デザインの洋服を着ていたと明かした。高嶋ちさ子は音楽界ではトップに立てば森英恵の服が着られると話した。
1951年、主婦だった森英恵は洋装店「ひよしや」を開業。ショーウィンドウでマネキンに服を着せて陳列するなど当時としては画期的な試みだった。評判を呼び依頼を受けて様々な映画で大スターたちの衣装デザインを手掛けた。デザイナーの始まりは長男の妊娠・出産を経ながらドレスメーカー女学院に通い洋裁を学んだ。夫・森賢の実家は繊維会社を経営していた。
1961年、当時睡眠が2~3時間と女ナポレオンと呼ばれるほど働いていた森英恵。過労で仕事を辞めようかと塞ぎ込んでいたが休暇を兼ねて約1カ月間パリで名だたるデザイナーのファッションショーを見学。当時は現在の有名デザイナーが新人として頭角を現してきた時代。中でも森英恵の心を動かしたのはココ・シャネル。スーツを作るため直接シャネルのアトリエを訪れ、シャネルを訪れた初の日本人と言われている。
シャネルは森英恵にベージュのスーツとオレンジのブラウスを製作。計算し尽くされたデザインと実用的で着心地の良い服に森英恵は再び仕事への意欲を取り戻した。
1960年頃のシャネルのオーダースーツの価格は数千ドル。当時の大学初任給は約1万3000円だった。ユベール・ド・ジバンシィとピエール・カルダンは「徹子の部屋」に出演している。黒柳徹子はユベール・ド・ジバンシィと一緒に食事を取るなど友達だと話した。
1965年、アメリカ・ニューヨークで海外初のコレクションを発表。ニューヨーク進出のきっかけは、チープなイメージがあった日本製のイメージを変えるため。当時アメリカの百貨店は階数が上がるほど高級品が売られていた時代で日本のブラウスは地下で1ドルで販売されていた。日本製への低評価に憤りを感じた森英恵はアメリカでの成功を決意した。日本伝統の高級生地を使った作品をデザインし、当時アメリカではモノトーンな服が多かった中、鮮やかな色彩と当時は珍しかった「蝶」の柄のデザインで話題になる。ショーが終わると高級デパートとの取引が決まり世界的影響力を持つファッション誌「VOGUE」にも取り上げられその名は一躍世界へ。1973年にはセブンスアベニューにショールームをオープン。
森英恵はニューヨークで黒柳徹子と出会う。黒柳徹子は1年間仕事を休みニューヨークの演劇学校に留学していた。2人はすぐに意気投合し、森英恵は黒柳徹子の衣装を多数手掛けた。森英恵が有名人を招いたディナーで黒柳徹子はウラディミール・ホロヴィッツやオードリー・ヘプバーンらと会ったという。
黒柳徹子はオードリー・ヘプバーンがタバコを吸っていて驚いたというエピソードを明かした。
黒柳徹子は1954年から今も続く大人気トーク番組「ザ・トゥナイト・ショー」に出演した際、森英恵デザインの衣装を着用していた。
1967年、世界的デザイナーとなった森英恵は日本のある業界でも大革命を起こす。それは日本航空客室乗務員の制服デザイン。鮮やかなスカイブルーで制服のイメージを一新。そして3年後、再び制服デザインを手掛けた際には最新の流行を取り入れミニスカートに。7年後の1977年にも機能性も重視した制服をデザインしドラマ「スチュワーデス物語」にも登場した。またドラマ「アテンションプリーズ」では5代目の制服が使われた。
1975年、森英恵に転機が訪れる。世界中の女性のファッションアイコンだったモナコのグレース・ケリー公妃から運命を変えるあるオファーが届いた。
森英恵はハナヱ・モリブランドの大ファンだったグレース・ケリー公妃からモナコでチャリティーファッションショーの開催のオファーを受ける。モナコでのファッションショーは大成功し、グレース・ケリー公妃からの言葉でヨーロッパ進出への決意を固める。
グレース・ケリー公妃との縁で東洋の真珠と称された世界的バレリーナ・森下洋子の衣装も手掛けることに。グレース公妃がモナコでバレエ公演を主催し森下洋子が出演する際に森英恵がデザインした。森下洋子はデザインのみならず森英恵の人柄に感銘を受けたという。
ヨーロッパ進出を決意していた森英恵だが当時ある葛藤を抱えていた。アメリカ進出から約10年、洋服は飛ぶように売れていたが鮮やかな色彩と蝶のデザイナーというイメージが定着していたが色彩に疲れモノトーンの服をデザインしたくなっていた。そんな森英恵がパリで目指したのはオートクチュールの世界。オートクチュールとは手仕事で作る一点物の最高級オーダーメイド服。すでにヨーロッパでも顧客がついていた森英恵はパリにオートクチュール・メゾンをオープン。さらにオートクチュールコレクションを披露するなどパリでの知名度はさらに上昇。この当時からトレードマークだった蝶を封印しシックなモノトーンの作風になった。
1977年、パリでの活動が認められ森英恵は東洋人初の快挙となるパリ・オートクチュール組合の正会員になる。パリ・オートクチュール組合は世界最高峰の技術を持つ高級オーダーメイドブランドを統括する団体。正会員の顧客は王族や貴族、セレブばかり。当時の会員は世界中のトップデザイナーから選りすぐられたわずか24名のブランドのメゾン。パリ・オートクチュールの1着の値段は数百万円~数億円の場合もある。顧客数は推定4000人でその顧客の売上がラグジュアリーブランドの全売上の約40%を占めるといわれている。
1978年、森英恵は東京を世界的ファッション都市にするため表参道にハナヱ・モリビルをオープン。全面ガラス張りで5階にはファッションショーができるフロアも。他にもハナヱ・モリブランドは食器、洗濯機、バイクなど多くの日用品もデザインした。デザイナーのライセンス事業は当時としては画期的な試みだった。
1988年、森英恵は美空ひばりのコンサート衣装を担当。当時3カ月半の入院生活を送った美空ひばりは復活コンサートの衣装を森英恵に直接依頼した。美空ひばりからのリクエストはドレスを軽くしてほしいというもの。体調が万全じゃない美空ひばりのために軽くて大きく見える衣装をデザインした。美空ひばりは1989年6月24日に永眠。しかし森英恵は生きている美空ひばりをイメージして没後も15年間、毎年一着ずつ新作ドレスを作り続けた。赤いドレスの裾は体調が悪くヒールも履けないほどの状態だった美空ひばりが、演出家からの「裾を10m伸ばして花道を歩かせたい」と要望を断り森英恵と一緒にどのくらいの長さであれば歩けるかを2人で試して決めた。
森英恵の癒やしとなったのは孫たちの存在。孫は5人兄妹で長女・泉はタレントでモデル、次男・勉はアーティスト、次女・雪は2児の母、三女・星はモデル。そして森英恵の息子・顕さんの妻はアメリカ人モデルのパメラさん。黒柳徹子はパメラさんが顕さんと結婚前からの友人だったという。
森英恵の心の癒やしとなっていたのは孫の存在。幼少期の貴重映像を紹介した。孫たちの名前は森英恵が名付けた。森泉はデビュタント用に森英恵が作ってくれたドレスを披露した。デビュタントは名家の未婚女性の社交界デビューイベントでヨーロッパや欧米の伝統的な通過儀礼。
