- 出演者
- 三谷幸喜 安住紳一郎 中川絵美里 小橋共作(ドンデコルテ) 菊間千乃 渡辺銀次(ドンデコルテ) 岸谷蘭丸
オープニング映像。
2025年も独自の目線で取材をしてきたNキャス。今夜は年末拡大スペシャルということで、今年話題のあの人、あの現場を取材。「新事実、二宮和也引き際を語る!?」などのラインナップを伝えた。
出演者がオープニングの挨拶をした。
きのう午後7時半ごろ、群馬県みなかみ町の関越自動車道下り線で乗用車や大型トラックなど60台以上が絡む事故が発生した。事故当時みなかみ町には大雪警報が出ていて、路面が凍結していたとみられている。警察によると1台のドラックが雪でスリップし停止したところに後続車両が次々と衝突したという。この事故で2人が亡くなったほか26人がけが、うち5人が重傷となっている。関越自動車道は現在も湯沢ICから月夜野ICの間、上下線共に通行止めが続いている。解除の見通しは立っていない。群馬県みなかみ町の事故現場から中継でリポート。現在67台のうち65台の撤去が終わったというが、まだ車の部品などが道にたくさん散乱している。レッカー作業は事故があった下り車線だけではなく上り車線も使いながら行っており、上下線で通行止めが続いている。通行止めの箇所を迂回するためには国道17号を通るが、午後7時頃は激しい渋滞はなかった。
きょうは年末拡大版ということで、1時間早くスタートし今年1年のニュースを振り返る。
きのう午後4時半ごろ、静岡県の横浜ゴム三島工場から「5~6人が工場敷地内で刃物で刺された」との119番通報が入った。殺人未遂の疑いで現行犯逮捕されたのは、工場関係者とみられる38歳の容疑者。男性会社員を刃物のようなもので刺し、殺害しようとした疑いが持たれている。犯行時容疑者はガスマスク風のものを着け漂白剤のような液体をまいたとみられ、20代から50代の男性15人が刃物で切りつけられるなどしたが、全員意識はあるという。
今年10月、週刊文春電子版で「自宅に家宅捜索が入った」と報じられた米倉涼子が、きのう夜に自身のホームページでコメントを発表した。
「ニノなのに」の番組宣伝。
「自宅に家宅捜索が入った」とされる報道について、米倉涼子は自身のホームページで「一部報道にあったように、自宅に捜査機関が入ったことは事実。それ以降弁護士の方々とも相談をし、捜査に全面的に協力する観点から情報発信は控えていた。今後も捜査には協力していくが、これまでの協力により一区切りついたと認識している。私は私を信じてサポートしてくださっている方々に感謝しつつ、少しずつ前に進んで生きたいと考えている」などとコメントを発表した。
東京都渋谷区で広告代理店を営んでいる37歳の被告。化粧品などを紹介するインフルエンサーだが、3年間で約1億5700万円を脱税したとして在宅起訴された。被告は元エグザイルの黒木啓司の妻で、フォロワー数47万人を超える人気インフルエンサー。SNSの運用業務を取引先が行ったように装い、虚偽の領収書を作成させていたという。脱税で得た金はブランド品の購入や事業資金に充てていたとみられ、被告は会社の公式サイトで「必要な修正申告および納税に速やかに対応する」とコメントしている。
先週金曜、西東京市の自宅で母親と3人の息子の計4人が死亡した。父親の通報で発覚し無理心中の可能性があるこの事件が、思わぬ展開を見せた。母親の交際相手とみられる27歳男性の遺体が、養生テープで目張りがされたクローゼットの中から見つかった。腹や背中などに十数か所の刺し傷があり、死因は出血性ショックだという。今月14日前後に死亡していた可能性があることがわかった。遺体発見のきっかけは警視庁が4人が死亡した事件を捜査していたところ、自宅から約5.5km離れた練馬区に母親名義のマンションがあることがわかり、そこを調べたところ遺体が見つかった。リビングのソファには牛刀のような刃物があり、部屋には消臭剤や空気清浄機が置かれ、遺体発見時も作動していたという。4人が死亡する2日前、母親と見られる人物が空気清浄機のような物を持ってマンションに入っていく様子が防犯カメラに映っていた。さらに母親の車からは死亡した男性のスマホが見つかり、男性の勤務先に「体調不良のため休む」というメッセージが送られていたこともわかった。警視庁は男性が生存しているよう装うために送られた可能性があるとみて、調べている。
年の瀬に訃報が相次いだ。火曜、「ジャンボ」の愛称で親しまれたプロゴルファーの尾崎将司さんが亡くなった。78歳だった。プロゴルファーの道しるべ的存在で、賞金王は歴代最多の12回。生涯獲得賞金も歴代最高の26億8800万円だった。徳島県立海南高校野球部でピッチャーとして活躍し、1964年に春の選抜高校野球大会で優勝。翌年西鉄ライオンズに入団するも実質3年で退団し、23歳のときにプロゴルファーに転身した。弟の建夫さん、直道さんもプロゴルファーとなり、兄弟3人でゴルフ人気を牽引した。2010年には日本人4人目の世界ゴルフ殿堂入りを果たし、8年前にはゴルフアカデミーを設立し後進の育成に尽力。今季年間女王に輝いた佐久間朱莉や原英莉花、笹生優花らを育てた。盟友の中嶋常幸は「日本のゴルフ会に革命を起こした人。パワーでゴルフを作っていく時代に、尾崎さんからなったのではないか。ジャンボ尾崎の出現がなかったら松山英樹のマスターズ優勝もなかった」などと語った。尾崎さんは約1年前にS状結腸がんのステージ4と診断され、自宅で療養を続けていた。葬儀は近親者のみで行われ、後日お別れの会が開かれる予定。
きのうは脚本家の内館牧子さんが、今月17日に亡くなっていたことがわかった。77歳だった。大学卒業後会社勤めをしながら作家を目指し、40歳のときに脚本家デビュー。連続テレビ小説「ひらり」では橋田壽賀子賞を受賞するなど、数々の名作を残してきた。また大の相撲好きで、2000年から10年間女性として初めて横綱審議委員会の委員を務めた。審議委員時代には当時の横綱・朝青龍の言動を厳しく批判し、「天敵」とも呼ばれていた。急性左心不全のため都内の病院で亡くなったといい、来春にお別れの会を予定しているという。
今年のクマの被害は災害級ともいわれており、現時点での負傷者230人、死者13人は過去最多だった2023年の2倍にのぼっている。しかも今年のクマの行動は、これまでの常識では考えられないものばかり。7月には新聞配達中の男性が襲われ、死亡。男性は約100m離れたやぶの中まで引きずられていた。多くの自治体がかつてない対策を迫られ、秋田県は自衛隊の派遣を要請し、警察も特別部隊を編成した。冬になってもいたるところにクマは出没し、長野県では雪かきをしていた男性が襲われ、新潟県ではスキー場の近くに現れた。
今から55年前の1970年にも、クマの常識を覆す事件があった。「福岡大学ワンダーフォーゲル同好会ヒグマ襲撃事件」で、当時の新聞にはセンセーショナルな見出しが踊った。北海道で史上最悪のヒグマによる惨劇といえば、110年前の1915年に次々と民家を襲撃し7人が亡くなった「三毛別ヒグマ事件」がある。一方で福岡大の事件は、北海道の山岳史において戦後最悪のヒグマ襲撃事件として知られている。福岡大学ワンダーフォーゲル部OBの青柳喬さんは、真相を明らかにしようと数年前に部室に眠っていた報告書の全文をネット上に公開した。数十ページにも及ぶ報告書を2か月ほどかけてデータ化した。事件直後は福岡大生に対して批判的な報道も多く、今もSNSや動画投稿サイトには「クマを甘く見た学生たち 悲劇の結末」「絶対に犯してはいけないタブーを犯し続けた学生」といった誤解が溢れているという。年間約2万5000人が訪れる日高山脈山岳センターには、55年前に福岡大生を襲ったヒグマの剥製が展示されている。体長約1.3mの若いメスグマだった。1970年7月、事件が起こった現場は日高山脈にあるカムイエクウチカウシ山、通称「カムエク」。登山をしていた福岡大学の学生5人が3日間に渡り6度もヒグマに襲撃され、3人が行方不明になった。大規模な捜索が行われ、数日後に3人を遺体で発見。山の中で荼毘に付され、現地に駆けつけた遺族に遺骨が手渡された。亡くなった興梠盛男さんの遺品である古い手帳には、壮絶な状況が記されていた。絶景で知られるカムエクを始め2000m級の名峰が連なる日高山脈は、何日も尾根を縦走したり未整備の山道を進むなど登山の難易度は高い。事件当時大学生の間ではワンダーフォーゲル部が人気だったこともあり、日高山系にも約30のパーティーが入山していた。福岡大は芽室岳登山口より入山し、2週間近くかけて日高山脈を縦走する計画だった。クマと遭遇したのは、12日目の1970年7月25日。5人はカムエクに近い九の沢カールでキャンプしていた。午後4時半、全員がテントの中にいたときにクマを発見した。クマは徐々にテントに接近し外に置いていたザックを漁り食料を食べたが、5人は隙を見てザックをテントの中に入れた。そしてクマを追い払うため焚き火をし、ラジオの音量を上げ食器を叩くと30分ほどでクマは消えたという。この時点で翌日には下山する予定になっていたが、翌日の出発直前に再びクマが現れた。5人は50mほど山側に逃げ、2人はハンターを要請するため下山した。残った3人はクマの動きを監視し、興梠さんはこの時からメモを詳細に書き始めていた。
下山しようとしていた福岡大の5人を、クマが襲撃。このときの様子を興梠さんは「5:30、テントに近づきたおれたテントをひきかきまわす」「6:13、林の中へ入り姿をけす。ゆくえがわからない」とメモに残していた。クマが姿を消した隙を見て3人はザックとテントを取り返し、山を登り稜線上に出た。下山した2人は途中で他のパーティーと出会い、ハンターの要請を依頼。八ノ沢を登り、5人は稜線上で再び合流した。この日は体力的にも精神的にも厳しかったことから、もう一晩過ごすことを決めた。午後4時半、夕食を済ませ寝る準備をしていたところまたもやクマに襲われてしまう。この場を離れようと下山し始めたところ、クマが後を追ってきた。5人は急いで逃げたためバラバラになったが、林の中から「ギャー」「畜生」という叫び声がしたという。1人で行動することになった興梠さんは必死に逃げ、他の大学のテントに飛び込んだ。テントの中で夜明けを待った興梠さんは「5m上にクマがいた」「すべて不安で恐ろしい」など、最後のメモを残した。残りのメンバーも別の場所でクマに襲われ、後日3人が遺体で見つかり山で荼毘に付された。
実は福岡大の事件が起きる直前、ほぼ同じ場所でヒグマに襲われ生還した人達がいる。北海道大学ワンダーフォーゲル部OBの中原豊司さんと山下文孝さんは今回初めてテレビの取材に応じ、当時の詳しい状況を明かしてくれた。北大が日高山脈に入山したのは、1970年7月21日。福岡大がクマに襲撃された4日前だった。中原さんたちは入山後沢沿いを進み、カムエクの麓にある八ノ沢出合をベースキャンプ地に設定。福岡大が最初に襲撃された九の沢カールの少し手前だった。計画は10日間でいくつかの山を踏破するという壮大なものだったという。出発から1時間、沢沿いを歩いていると他の大学のパーティー2組が慌てて下山してきた。全員ザックを背負っておらず、顔面蒼白だったという。「クマが出た」「この先は進まない方がいい」などと聞かされたが、さほど気に留めることもなく先に進み、八ノ沢出合キャンプ地に到着した。翌日4人はカムエクに登頂し、その後ベースキャンプに戻りテントで荷物を整理していた。
クマが出没したと聞きながらも登山を続けた北海道大の4人は、荷物を整理している最中にテントの外でクマの気配を感じたという。しかし山下文孝さんは「登山中にクマに会うのは普通で、向こうから何かしてくるという意識はなかった」などと語った。しかし午後8時、しっかり設営したはずの荷物用テントがなぜか倒れていた。その後寝る準備をしていると、沢の上流でキャンプをしていた他の大学から「クマが出たぞ」という叫び声が聞こえた。北大の4人は焚き火の火を大きくし、たいまつも用意した。午後11時、近くにクマが現れ初めて恐怖を覚えたという。
北大の4人はクマの気配に怯えながら薪をくべ、火を大きくしていた。その2、3分後、懐中電灯の先にクマの姿が浮かび上がった。クマとの距離は約5m、用意していたたいまつに火をつけクマに向けた。そのまま数十秒睨み合っていると、クマは上流へ姿を消したという。ベースキャンプを捨てた4人は、100mほど下流で他の大学のパーティーと合流。ここで一晩を過ごし、朝になるとクマは去ったと判断しテントに戻った。しかし食料が漁られていたため、残された荷物を持ってすぐに下山を開始した。幸いにもその後クマに遭遇することはなかったという。
地元の北海道大学はクマに襲撃されながらも無事に下山できたが、その一方で福岡大は事件後に「九州の無知な学生」というイメージを持たれてきた。しかし両者の実際の行動に大きな差はなかった。どちらもクマが人間を襲うとは考えておらず、その対処法も主にたき火と共通している。福岡大はたき火の他にも食器を叩き、ラジオを鳴らすなど当時のクマ対策を最大限行っていた。北大OBの山下さんも、福岡大の対応について「間違ってない」などと語った。福岡大への指摘の中には「クマから荷物を取り返したのが良くなかった」というものもあるが、事件後に報告書の全てを公開した青柳喬さんは「そういった絶対にやってはいけない行動は、この事件を通してむしろ広まっていった。後になって責め立てられるようなものではなく、クマを知る上での一つの材料と認識すればよいのではないか」などと語った。北海道大学と福岡大学の違いといえば、下山までにかかった時間。北大は最初の襲撃後翌朝には下山したが、福岡大は翌朝になってもすぐには下山できなかった。その理由は、クマがテントに居座っていたときにザックにある金銭や貴重品を持ち帰ろうと、様子を見ていたから。福岡大は下山しようとしたときに運悪く再びクマが来て、下山のチャンスを逃した。
