芦田さんが考える秀吉のいメージは、人たらしなイメージがあると話す。秀吉の敵もトリコにしちゃう人垂らし術。当時の再現イメージでは、毛利家に突然京の都へ上洛せよ、拒絶することを禁ずと手紙が届いた。京都への上洛とは、秀吉からの服従の命令という意味である。当時ほぼ秀吉の傘下に入る大名が多い中、毛利家は服従Jの意思をみせていなかった。毛利家は秀吉の傘下に入ることを長く拒んできた。まずは秀吉の命令に従い京都に行くことに。そして毛利家が着くと、秀吉は毛利が京都に訪れたことを歓迎し、京都を秀吉が案内することに。毛利側の文献によると、毛利とお供のものは秀吉自らの案内で大阪城の天守を見学と残っている。さらに京都だけではなく、奈良も案内しており、1ヶ月半の間に各所を案内した。そして最終日、毛利輝元は秀吉の傘下になった。秀吉は毛利を従わせるのは力ずくでは無理だと分かっていたため、戦わずして手中に収める手段をつかった。その後毛利輝元は豊臣政権の五代老に入る。関ヶ原の戦いでは西軍の総大将も務めた。
