- 出演者
- 富澤たけし(サンドウィッチマン) 伊達みきお(サンドウィッチマン) 芦田愛菜 満島真之介
大河ドラマでも注目の戦国時代。戦国最大の論争が今夜決着する。徳川家康、織田信長、豊臣秀吉三英傑の中で最強は誰?今回は戦国時代大好き博士ちゃんが集結。
まずは戦国三英傑の基本プロフィールを徹底比較。織田信長は170センチ61キロ。豊臣秀吉は154センチ45キロ、徳川家康は159センチ70キロと戦国時代男性の平均身長は157センチ前後だった。さらに家康は晩年になると自分のお腹の帯が結べなくなるくらい太っていたという。生まれ、家柄について、織田信長は1534年戦国大名の三男として生まれた。豊臣秀吉は1537年農民の息子として、徳川家康は1542年生まれの弱小大名の長男として生まれた。甲冑のかっこよさについて、織田信長は実践型。豊臣秀吉は派手な兜、徳川家康は金ピカだった。ここでクイズ。秀吉の兜には29本の立物がついている。戦場で使うための工夫はなにか。正解はすぐ折れるよう薄い木で作られていた。続いては結婚。織田信長は政略結婚、豊臣秀吉は恋愛結婚、徳川家康は政略結婚だった。さらに年収について、徳川家康は1000億円、豊臣秀吉は555億円。織田信長は1750億円とされる。ここで博士ちゃんが意義を唱える。この数値は石高の年収で、家康は佐渡金山を幕府で所有しているため金山補正が入ったら残り400万石入るのではと指摘。さらに信長博士の豊田さんは、織田信長は本能寺の変がなかったら約2000億円は設けていたのではと話す。銅像の数では徳川家康が13体、豊臣秀吉が11体、織田信長が17体とされる。享年は織田信長が49歳、豊臣秀吉が62歳、徳川家康が75歳。合戦の勝敗数は徳川家康が54勝、豊臣秀吉が105勝、織田信長が63勝。ここでクイズ、豊臣秀吉は戦の数が144回とダントツで多いがそれはなぜか。
三英傑最強決定戦。三英傑が好きな博士ちゃんが集結。豊臣軍の諸星さんは真田幸村が好きなことから秀吉を選んだ。徳川軍の栗原さんは初登場は9歳。お城博士として登場していた。
三英傑の勝敗数は、徳川が54勝、織田が63勝、豊臣が105勝だった。ここでクイズ。なぜ秀吉は戦がおおいのか。芦田さんが朝鮮出兵してるからと回答し正解。天下統一を目指した秀吉は国外へ目を向け、挑戦へ遠征し、序盤は多くの勝利をおさめた。博士ちゃんから補足として、朝鮮出兵は加藤清正が実績をとっているので清正の補正が入っているのではと話すが、それも含めて秀吉軍だと反論され意見をひいた。
三英傑のカリスマ、戦術、城について比較。カリスマ部門秀吉軍では、当時秀吉の傘下に入ることを嫌がっていた毛利輝元を秀吉のカリスマ力で傘下にしたことにある。
芦田さんが考える秀吉のいメージは、人たらしなイメージがあると話す。秀吉の敵もトリコにしちゃう人垂らし術。当時の再現イメージでは、毛利家に突然京の都へ上洛せよ、拒絶することを禁ずと手紙が届いた。京都への上洛とは、秀吉からの服従の命令という意味である。当時ほぼ秀吉の傘下に入る大名が多い中、毛利家は服従Jの意思をみせていなかった。毛利家は秀吉の傘下に入ることを長く拒んできた。まずは秀吉の命令に従い京都に行くことに。そして毛利家が着くと、秀吉は毛利が京都に訪れたことを歓迎し、京都を秀吉が案内することに。毛利側の文献によると、毛利とお供のものは秀吉自らの案内で大阪城の天守を見学と残っている。さらに京都だけではなく、奈良も案内しており、1ヶ月半の間に各所を案内した。そして最終日、毛利輝元は秀吉の傘下になった。秀吉は毛利を従わせるのは力ずくでは無理だと分かっていたため、戦わずして手中に収める手段をつかった。その後毛利輝元は豊臣政権の五代老に入る。関ヶ原の戦いでは西軍の総大将も務めた。
ここで博士ちゃんから指摘。実は毛利家は大阪城を守っていただけで関ヶ原に行っていないという説がある。これは家康が勝ちそうだから大阪城に残り、どちらの結果になっても自分の立場が安泰の方に考えたという説があるという。それに対し豊臣軍が異議あり。大阪城を守っていたというが、これは息子に秀頼を守っていたので役に立ったと反論。そして徳川軍が反論。戦いには毛利の親族の吉川広家が参戦していたが、戦いの最中にお弁当を食べ続けていたという。
続いてカリスマ部門の織田信長。織田信長は残虐なイメージがあるが、ギャップ萌えしちゃう優しい一面もあるという。当時の再現イメージによると、家臣の間では裏切った浅井長政の髑髏を盃にしたなどの噂が広まっていた。そこで信長からの命令で戦に出向いた時、寝ている農民の姿が。信長が通っているにも関わらず寝ている姿に家臣が代わりに農民を斬ろうとしたが、家臣をとめ、自身が合戦に赴くのはこの農民のためだと悟った。信長は敵や身内には残虐だが、農民には優しく接していた。信長はコメがないと生活ができない、すなわち国が滅びると分かっていたためだという。
ここで豊臣軍から反論。織田信長は信長の公記によると、ミスした家臣の佐久間信盛へ過去を掘り下げた手紙を送っているため、根に持つタイプではと反論。それに対し信長軍は家臣団と農民を使い分けていたと反論。さらに豊臣軍は、信長が一向一揆をWした時に2万人以上も殺したと反論した。
続いては徳川軍。懐が深すぎ許し度がカリスマックスない家康を再現。武将には身の回りを世話する小姓と呼ばれるものがいた。しあKしそれは敵国が送り込んできた暗殺者だった。寝込みを襲われる事件があったが、寝所を護衛していたおかげで暗殺失敗に終わった。捕まえた暗殺者に対して、家康は許して敵国に送りかえしたという。家臣は暗殺者を許した理由をきくと、国へ戻った暗殺者は家康の話を言いふらすので、懐が深いと噂が広がれば味方するものが出てくるかもと狙った。さらに徳川軍は今までの論争で織田と豊臣はけなし合っていたが、徳川だけ悪評が出ていないとアピールした。
三英傑の話しを効いて、最もカリスマだと思った武将に投票する。ギャップで心を掴んだ織田信長か。敵を虜にした豊臣秀吉か、暗殺者を許す懐の深さ、徳川家康か。結果は織田信長が選ばれた。芦田さんは、現代に生きるなら選ばれたいのは秀吉か家康だが、信長は厳しい部分はあるものの、胸キュンエピソードがないとみんながついてこないのではとバランス性を評価した。
まず一勝下の歯織田信長。続いては戦術部門。最初は家康軍。ムリゲーを見事に攻略、大高城の兵糧入れ。家康が19歳のとき、今川義元の下についていた。味方の大高城が敵の小田郡に包囲されていたが、そこに家康が兵糧を運び込めと指示された、そこに家康はある方法で兵糧を入れることに成功した。この方法とはどんな方法なのか?
三英傑最強決定戦、戦術部門。家康は敵に囲まれた城に兵糧を届けることができたが、家康はどうやって兵糧を届けたのか?ヒントは布陣図。正解は、家康軍の一部が鳴海城をせめて、大阪城にいた織田軍が鳴海城に向かったスキに残りの徳川軍が大高城に向かった。この功績により家康は大高城を任されたという。
続いては戦術部門織田信長。戦の常識を変えた!?信長龍働き方改革。戦国時代の戦争は、決まった本拠地があってお城からでて戦いに行く。上杉謙信や北条氏康などの武将は本拠地となるところがあった。しかし、本拠地が広がると移動距離やお金がかかる問題が。そこで農民に戦に出るよう命令するが、農業時期とかぶってしまい戦いに行けないという問題もある。そこで信長がとったのは兵農分離。戦う人と農業をする人でブループに分けた。これにより本拠地を移せるようになるので攻めたい場所の近くに本拠地を移動できる。これにより信長は短期間で本州面積の約3分の1を手に入れる力をもったという。
続いては豊臣秀吉。本能寺の変で織田信長がこの世を去り、柴田勝家と豊臣秀吉が天下人の座をかけて対立した。両者の戦いは賤ヶ岳となった。秀吉軍は賤ヶ岳から美濃の敵軍を攻めていた。柴田郡あH手薄になった賤ヶ岳に侵攻。秀吉の拠点の砦を陥落した。秀吉軍は知らせをうけていそいで大移動をする。そして討伐して柴田郡は大きな戦力を失って敗北する。秀吉軍は約52斬ろの道のりを約5時間で走破した。この驚異的はスピードを美濃大返しというが、それを可能にしたものはなにか?ヒントは想い甲冑を戦術で解消している。
約52kmを5時間で走破した秀吉軍。急ぐために効率化を図った秀吉は道中に食事やたいまつなどを事前に準備させていたとされ、重い甲冑のため船を使ったという説も考えられている。
長い距離を疲れないように走るために考えられた「ナンバ走り」がある。半身を上下に連動させることでねじれが抑えられ筋肉への負担が軽減されるため、長時間・長距離の走行が可能になるという。スタジオで「ナンバ走り」を実践した。
三英傑最強決定戦・戦術部門。優勝は豊臣秀吉。家康の本懐はここではないと話した。
三英傑最強決定戦・城部門。城は戦国武将のシンボルで、軍事力・経済力・政治力、武将の能力の全てが詰まっている。最もスゴい城を築いたのは誰?まずは信長軍のプレゼン。戦うよりもバズらせたい!見た目重視の安土城。今年築城450年。日本初の本格的な天守。城の概念を覆し、生活・政治の場となる豪華絢爛な造り。観光客を呼び込んで見物料を徴収していた。バズらせポイントは豪華絢爛な天守、180mの大手道、夜の安土城。
