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オープニング映像。
仙台市の仙台市立荒浜小学校から木村拓也による中継。15年前に津波が荒浜小学校を襲った。木村拓也は「網越しに見える景色は給食室だった。津波の威力は窓枠から分かる。震災の教訓を辿っている。」等とコメントした。
岩手県宮古市で避難訓練が行われた。宮古市では2012年から毎年、3月11日に避難訓練を行ってきた。忘れない事が命を守る事に繋がるという事を避難訓練の参加者達は知っている。あの日、514人の死者・行方不明者を出した。それ以来、宮古市は震災遺構を保存し後世に伝える施設を造ってきた。宮古市災害資料伝承館の高岩将洋館長は「震災を知らない子供達に記憶と教訓を伝えていかなければならない。」等とコメントした。津軽石地区の住人・長洞さんは「水がずっとあった。」等とコメントした。消防団員の長洞さんは津波をせき止めようとしていた。2011年3月11日午後2時46分に東日本大震災が発生した。最初に観測された津波は20cmだったが、宮古湾の水位が下がった。地震発生から32分後、水位が急上昇した。午後3時21分に津波が押し寄せた。港は津波にのまれ破壊された。宮古湾の入り口の様子を奥側から捉えた映像を見ると、海面が盛り上がる様子が確認出来る。午後3時25分。津波は堤防を越えた。住宅地に流入し建物を押し流した。
福島第一原発の事故、あの日から福島県に住む人たちの生活は一変し、大熊町では全員が避難を余儀なくされた。多くの人が避難したのは会津若松市。町役場に掲げられているのは今も避難を続けている人たちなどが折った鶴。避難先で根を張って新しい生活を築いた人も多くいる。避難指示が大熊町ではじめて解除されたのは事故から8年後のことだった。除染で出た土などは中間貯蔵施設に運び込まれている。
仙台市の荒浜小学校から中継。この学校に津波が押し寄せられた時間は午後3時55分、その時間で止まった時計が展示されている。各地で2時46分の祈りが捧げれた。
宮城・石巻市の石巻南浜津波復興祈念公園では祈りが続いている。震源地に最も近かった石巻市は被災した市町村の中で死者行方不明者の数が最多。慰霊碑には市内で亡くなった3705の名前が刻まれている。この地区では住民の1割が犠牲になり、今は震災を未来につなぐ公園となっている。公園の一角にあるのは門脇保育所のプールの跡地がある。門脇保育所は園にいた約20人の子どもは避難し無事だったが、自宅に戻るなどした園児3人が犠牲になった。別の幼稚園では園児を乗せたバスが津波・火災に巻き込まれて5人が犠牲になった。
岩手・陸前高田市。ここは岩手県で最大の犠牲者を出した地域。番号が刻まれて名前のない墓石がある。身元不明の方が眠るお墓、15年たった今も9人の遺骨が眠っている。普門寺では震災直後、多くの遺体は預かってきた。身元不明の遺体は当時、400にものぼった。
岩手県大槌町。ここに震災から15年たった今も家族の帰りを待ちわびる人がいる。岩間敬子さんは大槌町にある災害公営住宅に1人で暮らしている。今も帰りを待ち続けているのが父の伊藤勝一郎さん、当時77歳。自宅の2階から周囲に津波の襲来を呼びかけていたのを最後に、家ごと津波に流された。津波で壊れ炎上した車などからがれきに引火し、何時間も燃えながら漂流した。大槌町では死者行方不明が1219人。うち行方不明は415人と県内で最多。あの日から15年、家にあるのはがれきの中から見つかった父の箸置き。岩間さんが訪れるのは去年8月に完成した鎮魂の森あえーる。まだ遺体の一部さえ見つからない住民など1273人の名前が刻まれている。
14年ぶりに一人の少女が家族のもとに戻ってきた。岩手・山田町で被災した当時6歳の山根捺星さん。震災当日は祖母と2人で留守番をしていて、避難のために外の出たが津波の恐怖に自宅に戻ってしまい流された。捺星さんが見つかったのは100キロほど離れた宮城県気仙沼市。捺星さんが戻った家族の元を訪ねると、お骨はたくさんのお菓子や花に囲まれていた。お骨が戻ったことで思い出話しが増えたという。親友だった楓恋さん、2歳。自閉症でうまくコミュニケーションがとれなかった捺星さんを気遣いいつも寄り添ってくれていた。震災の1周間前、お遊戯会の練習をしていた捺星さんと一緒にいた楓恋さんはうまく話せない捺星さんの代わりに自己紹介までしていた。
震災前日の夜、母の千弓さんはいたずらをした捺星さんを叱って泣かせてしまったという。山根さんご家族はきょう、捺星さんの遺骨が見つかった気仙沼市の海岸を訪れ海に向かって手を合わせていた。
高市首相が先ほど福島県主催の式典で追悼の辞を述べた。高市首相は「地震・津波被災地域の復興は着実に進展している」とした上で「原子力災害からの復興に向けては中長期的な対応が必要だ」と述べた。そして除染土について復興再生土の利用を進めるとともに、福島県外での最終処分に向けて段階的に2030年以降の道筋を具体化していくと強調した。
震災から2日後にFNNが宮城・女川町の避難所で出会った小村摩利さんは、現在東京で会社員として働いている。小村さんは「人の痛みをすごく知れた日だった。生きたくても生きられなかった方々がいたからこそ、自分が死ぬ時に自分の人生が最高だったなって思えるようにしたい」などと話した。福島市の沿道で警察車両や自衛隊の車両に手を振り続けた広野諒さんは、子供の頃の夢を叶えてハイパーレスキュー隊となっていた。広野さんは「小学3年生の時は何もできなかったが、今は助ける立場に変わった。1人でも多くの命を助けたい」などと話した。
福島・相馬市は高さ9メートルに及ぶ津波が沿岸部を飲み込み、壊滅的な被害をもたらした街。当時、安藤キャスターが出会ったのは使えなくなったパズルを発見した宍戸ひかりさん(当時8歳)。ぼろぼろで遊べくなったパズルを持って帰った。父を亡くし、母親代わりだった伯母を亡くし、住んでいた家も失った。瓦礫の中でえ1番探したのは、亡くなった父が震災直前に買ってくれたピンクの自転車。乗れる状態ではなかったが、ひかりさんは持ち帰りたがった。しかし、動かすことさえできなかった。現在、ひかりさんは23歳になっていた。家のあった場所は災害危険区域に指定され、家を建てることすらできない。彼女にしか見えない壮絶な15年。ひとりぼっちになったひかりさんは伯父さん夫婦との生活をすることになった。心の内を見せまいとする姿にやり切りれなさを感じていた。ひかりさんは今、小学校の保健室の先生になっている。子どもに気持ちを吐き出せるが必要と語る。
宮城県気仙沼市では1109人が亡くなった。追悼式で当時10歳だった千葉さんと父親は家族5人を失った。震災後、仮設住宅でクラスことになった千葉さん親子。父親は欠けてしまった家族のピースを埋めようとしたが、さみしい現実と向き合うこともあった。父親は千葉さんとつながりたくて、どんなに忙しくてもキャッチボールを続けた。千葉さんはある日父親に「気仙沼にバッティングセンターがほしいね」と話したことがあるが、2014年、父親は本当にバッティングセンターを作った。現在、千葉さんは東京で会社を立ち上げた。
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仙台市の荒浜小学校からの中継。当時9歳だった被災した人は「被災後のほうが長い。日常ではあの日を思い出すことがほとんどなくなってしまったからこそ、今日がとても大切」と語っている。荒浜小学校は震災遺構となり、この地区を離れた方々の心の拠り所となっている。「避難の丘」は6400人が収容できる。
阪神・淡路大震災、2016年の熊本地震、2024年の能登半島地震とこの国は何度もの地震災害から立ち上がってきた。その積み重ねが未来の力を守る力に。
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