- 出演者
- -
今回は鉄の女としての改革者の一面とイギリスで最も嫌われた女とも言われたマーガレット・サッチャー元英国首相の人生について紹介。
- キーワード
- イギリスマーガレット・サッチャー高市早苗
教育大臣時代のマーガレット・サッチャー氏は当時財政削減を進めるヒース内閣で7歳以上の学校給食の無料ミルクを廃止するという決断を周囲や野党の反対を押し切って断行し、国民からも大反発を受けることとなった。当時のメディアはサッチャー氏について「イギリスで最も嫌われた女」として報じた。その3年後にはサッチャー氏の属する保守党は下野し、与党となった労働党はオイルショックによる深刻なインフレ問題と続発するストライキの対応に追われていた。当時のサッチャー氏ははっきりとした物言いで保守党の原則を国民に再認識させることを目的に党首選に立候補した。閣僚経験は教育大臣のみという無謀な立候補に見えたが保守党議員のエアリー・ニーブ氏によるイメージ戦略もあり、見事党首に当選した。またその後党首選でライバルだったジェフリー・ハウ氏が右腕に加わり、与党奪還に動く。
1979年、保守党の党首としてサッチャーが初めて挑む総選挙の直前に盟友のエアリー・ニーブが爆破テロで命を落とした。1979年はイギリス最悪の混乱期で、ストライキが様々な業種に広がり、葬儀業者までもが仕事をボイコットして遺体を埋葬できないという事態にまで発展した。サッチャーはこの年の5月に英国史上初の女性首相に就任した。このニュースを報じたソビエト連邦の機関紙は、皮肉と警戒を込めて「鉄の女」と評した。
サッチャーは1925年にグランサムという田舎町の小さな食料品店に生まれた。サッチャーは父であるアルフレッド・ロバーツから「他人がするから自分もするのはやめなさい。自分の中の“原則”に基づいて行動するんだ」という教えを受け、これが彼女の考えの基盤となった。サッチャーは家柄や性別などの壁を乗り越え、グラマースクールからオックスフォード大学へと進学。そこでオックスフォード大学保守協会に入り、会長を務めるまでになった。大学卒業後はプラスチック製造会社に研究員として就職。昼は研究員として働き、夜と週末は保守党の青年部で政治活動を手伝う二重生活を送っていた。そして24歳の時、労働党が強いダートフォード選挙区で初出馬。サッチャーは落選するものの、この時の選挙活動を通じて実業家のデニス・サッチャーと出会い、26歳で結婚した。サッチャーは双子を出産し、また弁護士試験にも合格。弁護士と政治活動に二重生活を送る中、1959年に33歳で初当選した。
大久保は「私の原則がわからない」などと話した。会社員として働きながら、双子を生んで育てて、その後に弁護士資格をとり、さらに政治活動をしたサッチャー。化学の研究者の仕事をしていたという。首相になってから働き方が数倍ハードになっていたという。彼女の原則で、朝ごはんは絶対に作るというのがあったという。
当時600人以上の議員の中で、女性はわずか25人ほど。初当選から10年。保守党内で着実に経験を積み、1970年に教育大臣として初入閣。無料ミルクの廃止で国民からミルク泥棒と罵られながらも、老朽化した小学校の建て替えや無料保育園の増設など大胆な改革を行った。そして、1979年、ついにイギリス初の女性首相となったサッチャー。まず取り組んだのは経済の立て直し。当時のイギリス経済は“イギリス病”と呼ばれるほど深刻な大不況。物価は上昇するが景気はずっと悪いいわゆるスタグフレーションの真っ只中だった。まさに今の日本もその入口に立っているとも言われる状況の中、新首相サッチャーが打った手はイギリス社会を根底から覆す劇薬だった。根本的な保健サービスの改革、ゆりかごから墓場までの手厚い保険サービスの見直しに加え、インフラなどの国が管理するサービスの民営化に着手。この流れは日本にも波及。1980年代、中曽根康弘内閣時代に、国鉄や電電公社などを民営化。2000年代に入ってから、小泉純一郎内閣の郵政民営化やタクシー規制緩和も、新自由主義的政策の一つ。その世界の先駆けとなったのがサッチャーの政策だった。その後も金融規制の緩和など様々な政策を行い、イギリスを世界経済の主役へと押し上げ、総選挙で空前の3連勝。サッチャーの権力は頂点に。しかしその強すぎる信念が皮肉にも彼女を自滅へと追い込んでいく。キッカケは、彼女が決して譲らなかった2つのこだわり。サッチャーのコダワリの1つが人頭税。富豪も貧しい労働者も、収入や財産に関係なく一律税金を同じ金額に。イギリス全土で暴動が起き支持率は急落。それでも彼女は、これは公平な制度と一切耳を貸さなかった。もう1つが、現在のEUであるヨーロッパ共同体(EC)との確執。イギリスの主権が奪われると猛反発。
人頭税とECとの確執で意見を曲げることがなかったサッチャー氏を巡ってついに周囲の側近も離れる事態となり、1990年11月には盟友のジェフリー・ハウがサッチャー批判の演説を行ったことがトドメとなり自らの意思で首相を辞任した。
スタジオからは「次回放送がある場合は島崎和歌子の人生を見たい」などの感想が出た。
- キーワード
- 島崎和歌子
なにわ男子の逆転男子の番組宣伝を行った。
