- 出演者
- 藤森慎吾(オリエンタルラジオ) 石原良純 小泉孝太郎 高嶋ちさ子 渡辺瑠海 竹内涼真
偉人を祖父に持つ信哉さんのご自宅を訪問。ご先祖様は戦後の日本復興に大きく貢献した一人と言われている。信哉さんは古美術巡りが趣味だが、古美術好きは母方の祖父である文芸評論家・小林秀雄の影響とのこと。信哉さんの職業は文筆家。その前は細川護熙の秘書をしていたという。
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- アフロモオツァルト・無常という事一元堂三省堂書店人間の建設光文社吉田茂小林秀雄徹子の部屋文春文庫文藝春秋新潮文庫毎日新聞社精選 文学国語細川護熙経済産業省美を見極める力 古美術に学ぶ考えるヒント講談社通商産業省週刊ポスト骨董あそび黒柳徹子
信哉さんは暑い季節になると軽井沢の別荘で暮らしているという。ご先祖様も晩年は軽井沢へよく訪れていて軽井沢ゴルフ倶楽部の理事長を務めていた。ゴルフ場に飛び込みでやって来た田中角栄をメンバーズオンリーだと断ったという伝説のエピソードがある。軽井沢ではご先祖様が使っていたウイスキーの樽で再びウイスキーを熟成させる取り組みが行われている。ご先祖様は日本人では珍しくベントレーを所有していて、日本人で初めてジーンズを穿いたとも言われている。
文筆家・信哉さんの祖父は白洲次郎。戦前神戸で貿易商を営む家に生まれた白洲次郎は21歳の時にケンブリッジ大学に入学。イギリス留学で紳士的な考え方と語学力を身につけ、終戦後に吉田茂からGHQとの交渉役に大抜擢。現在の経済産業省である通商産業省の創設に尽力しその後も政治経済の世界で活躍。また当時としては珍しくベントレーを所有&ジーンズを穿いていた。白洲次郎の名を知らしめたのはダグラス・マッカーサーを一喝したというエピソード。
GHQとの交渉役を任された白洲次郎は1945年のクリスマス、昭和天皇から預かったプレゼントをマッカーサーに届けた。そこら辺に置いておけというマッカーサーの言葉に毅然と意見した白洲次郎は後にGHQの報告書に「従順ならざる唯一の日本人」と書かれ一目置かれる存在となったと言われている。
全国に約175万人いる鈴木さんのルーツに迫る。秋田県にある東北地方の鈴木姓の発祥の地へ。杢之助を襲名しながら800年以上この地を守り続ける46代当主・鈴木杢之助重廣さんのお宅は築約350年を誇る国指定重要文化財。現在は家族6人で生活している。茅葺き屋根から隙間風があるため夏は涼しいが冬は寒いという。鈴木家では空き部屋を活用して民泊も実施しているが寒すぎるため冬期は中止している。秋田の山奥はかつて落武者や罪人が逃れてきたと言い伝えられており、落武者をかくまうために使われたと伝わる部屋もある。落武者をかくまうために化け物がいるから入るなと言っていた習慣が代々受け継がれていて今もなお「ばけもの座敷」として入室禁止になっている。
小泉孝太郎は子供の頃に開けてはいけないと言われていた扉の中には若槻禮次郎の掛け軸などお宝が入っていたという。
鈴木家のメインスペースは快適な夏の間は宿泊施設として民泊などに貸し出している。大正4年に建造された重要文化財の内蔵は雪が積もっても蔵に行けるように家の中には造られている。現在は民泊・見学に来た人用の資料館となっていて蔵に眠っていた古文書など貴重なものがある。隣の部屋は鈴木杢之助重廣さんの趣味で集めたそば猪口ギャラリー。平成18~19年に約1億円をかけて土蔵を修理したが、鈴木さんのおばさんが書いた約70~80年以上前の落書きは残しているという。全国から鈴木さん集い親睦を深める鈴木サミットの記念すべき第1回が開催されたのはこの鈴木家住宅。
第8回鈴木サミットでは宿命のライバル・佐藤の会が乗り込んできたという。佐藤の会はオリジナルグッズで活動をアピール。鈴木さんはウド鈴木からのメッセージで対抗するなど両者譲らぬ展開に。鈴木姓をより広めるために鈴木杢之助重廣さんはオリジナルの日本酒「鈴木」やTシャツを制作したという。
鈴木姓の原点は熊野地方。稲穂を積み上げ豊作を作るホヅミという風習があり中央に立てた神木をススキと呼んでいた。これがスズキとなり、この風習を行う一族が鈴木さんと呼ばれるように。こうして鈴木姓が始まったとされている。熊野地方では自然と神仏を一体としてあがめる熊野信仰が根付いていて、熊野信仰の布教活動とともに鈴木姓が全国に広がった。東北地方の鈴木姓発祥は源義経の側近・鈴木三郎重家。源平合戦の後に生き延びて秋田へ逃れ、東北地方に鈴木性が広まったと伝わる。
ヨドバシカメラの屋上駐車場からは小田急線と横浜線が交差する線路を眺めることができる。町田が発展した鍵を握るのは横浜線。
町田仲見世商店街は全長約100mにグルメや雑貨など約40店舗が連なる。店前で食べられる仲見世グルメが人気。「マグロのお店 マルハチ」の名物は「マグロカップ」。「マルヤ製菓」は1日で600個売れる大判焼き専門店。看板メニューは「小倉あん」。仲見世商店街で行列ができるのは本場・上海の味を継承した「小籠包」。
大正8年創業「ヘアーサロン スエヒロ」の山下さんに町田の歴史を学ぶ。町田は昭和40年代、都市部への人口集中を避けるためベッドタウンとして開発が行われた。昭和30年代~40年代にかけて巨大な団地が駅周辺に次々と建設され、中でも随一の大きさを誇るのは総戸数4225の町田山崎団地。竹内涼真は中2まで町田山崎団地で暮らしていたという。町田発展の鍵を握るのは横浜線の開通。江戸時代中期から生糸の街として栄えた八王子から絹を輸出する際、横浜港への中間地点となった町田は大きく賑わったという。そして明治41年、貨物線として横浜線が開通した。
小田急線・町田駅の近くには町田の発展の始まりとなった絹の道の痕跡がある。町田は八王子~横浜間の約40kmのほぼ中間地点。日持ちする乾物は行商人に重宝されていた。当時の面影を残す「富澤商店」は大正8年創業。
大正8年創業「富澤商店」は製菓・製パン材料を販売し全国93店舗を展開。元々は乾物店として創業した。住民に町田あるあるを聞き込みしたところ「東京なのに神奈川県と間違えられる」「神奈川県町田市で郵便が届く」などがあがった。JR町田駅南口エスカレーターは東京・町田市と神奈川・相模原市の県境にある。
オープニング映像。
リラクゼーションサロンを経営する菅野さんの幸福時間はピアノ。4歳で鍵盤に触れ音楽大学を卒業後に一度は離れたが一人暮らしになった父の世話を始めた8年前に再開。日々の嫌なことを忘れて穏やかな気持ちを取り戻せるという。
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私の幸福時間の番組宣伝。
東京・町田のヨドバシの立体駐車場は県境にありカーナビが大混乱になるという。昭和41年~昭和55年まで町田市の玄関口を担っていた駅は原町田駅。当時横浜線を利用して新宿方面に行くには原町田駅から新原町田駅まで約500mを移動する必要があった。乗り換えのために乗客が走った道は駆け足通りと呼ばれる。
