- 出演者
- 池上彰 ウエンツ瑛士 村上茉愛 尾上右近[2代目] 影山優佳 片石貴展 友田オレ
「失敗を恐れず挑戦し続けたものづくりのリーダー」として本田宗一郎を特集。本田は高等小学校卒業後に自動車修理工となり、昭和21年に本田技術研究所を設立して自転車補助用エンジンA型を開発し、昭和23年に本田技研工業を創業したなどと紹介した。
2輪・4輪のGPタイトルを獲得してきた世界のHONDA。その始まりは静岡県の町工場であり、本田宗一郎がものづくり大国日本を世界に示してきた。静岡・浜松市天竜区で生まれ育った本田は昭和23年 に本田技研工業を創設した。本田を知るキーワードは「やってもせんで何がわかる」とし、本田は挑戦することの大切さを伝え続け、地元民にもその考えは浸透しえいる。本田も通ったという天王宮 大歳神社の権禰宜である石津は「成功の影には99%の失敗がある」という本田の言葉が好きなどと伝えた。本田宗一郎ものづくり伝承館では資料とともに本田の名言も飾られている。本田が通った浜松市立光明小学校では郷土 本田資料室が設けられ、本田の資料が教育に活用され、「まず行動! 試す人になれ」という意志が受け継がれている。ホンダの元社員である松井は、本田がオール社員参加のホンダアイデアコンテストを社内で開いて、本田も率先して参加し、立場が上になっても常に社員と同じ目線でいることを重視していたなどと明かした。昭和58年に開催したホンダ創立35周年記念式典で本田はスピーチで社員たちに頭を下げて社を支えるよう頼むとともに、これまでの功績や労働に感謝を愛情たっぷりに伝えた。
紹介してきた本田宗一郎についてトーク。影山らは本田の地元の人々が今でも老若男女誰もがすっと本田の好きな言葉を答えられるところが浸透の度合いが凄く伝わってきたなどと語った。池上は本田が戦後すぐの1年間に人間休業宣言を行い1年間全て仕事を休み民主主義と向き合って学び、民主主義とは人に命令されることなく自分で自由に決められると定義し、庶民が喜ぶものづくりをすると決め自転車補助エンジンを開発したなどと解説した。
「No.1スターで社長でもあった芸能界のリーダー」として石原裕次郎を特集。石原は俳優・歌手・芸能事務所「石原プロモーション」の社長で、兄には石原慎太郎がおり、昭和32年の映画「嵐を呼ぶ男」、昭和36年の映画「銀座の恋の物語」などでキャリアを積み重ね、ドラマ「太陽にほえろ!」で国民的スターとなった。
2025年12月、西武渋谷店では石原裕次郎生誕90周年祭が開催し、今後は全国主要都市でも開催予定となっている。イベント会場には映画「嵐を呼ぶ男」で実際に撮影で使ったドラムセットやドラマ「西部警察」の銃器、出演映画の台本・衣装などが展示されている。石原の座右の銘は「風行草偃」は芸能事務所社長として実践していたリーダー像そのものであった。石原は慶應義塾大学に進学し、目標なく放蕩三昧していたころに兄である石原慎太郎が「太陽の季節」で芥川賞を受賞し、小説が映画化すると石原も手伝いで現場入りしていたところプロデューサーに見出され銀幕デビューを果たした。二作目となる映画「狂った果実」で主演を任された石原は、映画「嵐を呼ぶ男」で大スターへとのし上がった。理想とする映画制作を目指して独立した石原は、東宝・東映・新東宝・大映・松竹からなる5社協定に風穴を開ける形で石原プロモーションを設立した。
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- 〜「日本人が最も愛した男」、昭和の大スター〜 石原裕次郎生誕90周年祭テイチクエンタテインメントデイリースポーツ大映太陽の季節嵐を呼ぶ男新東宝東宝東映松竹浅丘ルリ子渡哲也牧村旬子狂った果実石原プロモーション石原慎太郎石原裕次郎石原音楽出版社芥川龍之介賞西武渋谷店西部警察銀座の恋の物語
石原裕次郎は昭和54年放送開始の「西部警察」を大ヒットさせた。西部警察に出演していた舘ひろしは昭和58年に石原プロモーションに所属した。舘は石原について一度も怒ったところを見たことがなく、大きな人柄で悪口も聞いたことがなかったなどと明かした。東京・八王子にあるクラブ「yu’s Bar」では石原の命日になると今でもファンたちが集っている。テイチク杉並スタジオの元レコーディングディレクターであった後藤は初日から石原に制作について何も言わず信頼して依頼すると握手されたことを今も覚えているなどと話した。西部警察では使用した火薬総量は4.8tで、破壊した車両は4680台に及び、テレビの世界に映画のようなスケール感をもたらした。舘は石原が解離性大動脈瘤で入院した際には若手たちで酒を飲んでいる場に一人で訪れた石原が酒を自分にも飲ませろと要求し、最初は止めたが酒をくれないと渡に言いけると言われ2杯だけ一緒に飲んだが、翌日には無理やり酒を飲ましたことにされ渡に怒られたが、石原はその奥で笑ってみていてチャーミングなところがあったなどと告げた。阪神・淡路大震災の時、芸能界でいち早く炊き出しを行ったのは石原軍団であり、石原が始めた活動は渡・舘へと引き継がれている。
紹介してきた石原裕次郎についてトーク。尾上らは俳優業は一匹狼で一世一代な場合が殆どであるが石原のように独立して家風を築いていくのは自分たち歌舞伎の世界に似ており、芸能界では特殊なリーダーな方であったなどと語った。
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10代・20代・30代・40代・50代・60代以上の各世代100人・合計600人を対象に行った『あなたが思い浮かべる「リーダー」は?』のアンケート調査結果を紹介。またゲスト陣も各々に思い浮かべるリーダーを発表し、影山は長谷部誠、友田は渡辺正行、村上は萱和磨、片石は小嶋陽菜、尾上は室伏広治だと伝えた。
「小学校卒のたたき上げで国のトップになったリーダー」として田中角栄を特集。昭和8年に二田尋常高等小学校を卒業した田中角栄は、昭和22年に衆院選に初当選し、昭和47年に戦後最年少の54歳で内閣総理大臣に就任し、日中国交正常化などを成し遂げたなどと伝えた。
圧倒的な存在感から稀代の政治家と呼ばれた田中角栄。第102代 内閣総理大臣の石破茂が田中角栄について語る。
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第102代 内閣総理大臣の石破茂は田中角栄について、自治大臣などを歴任してきた父である石破二朗も田中のためになら死んでもいいと言うほど信頼し、実行力・決断力・判断力が図抜けており、父・二朗との最後の約束であった葬儀委員長も実現してくれていたなどと明かした。田中は葬儀を重んじており、葬儀は亡くなった人との最期の別れの機会だとして人目をはばからず故人を偲んでいた。石破は田中が約束は必ず守り、報いを求めない親切心で人々と接し、田中に頼んで無理なら仕方ないと誰もが思えていたなどと伝えた。田中は二田尋常高等小学校卒業後の初仕事は道路工事で、先輩の「土方は地球の彫刻家」だという言葉を励みにしていた。田中は16歳で上京し、19歳で土木建築会社を設立、25歳で田中土建工業を設立した。
田中角栄が政界に進出したのは昭和22年、28歳の時。昭和37年、44歳で大蔵大臣に就任。エリート官僚たちは懐疑的だったが、「全ての責任はこの田中角栄が背負う」という就任時の演説で空気は一変した。大蔵省の入省式では新人の顔と名前を覚え、声をかけたという。昭和47年、自民党総裁選で新総裁に選ばれた。石破茂は田中角栄について、「人を叱る時は1対1、褒める時はみんなの前だった」と話した。石破は24歳の時に「政治家になれ」と言われ、「歩いた家の数しか票は出ない、握った手の数し票は出ない」と言われたという。昭和51年に発覚したロッキード事件。田中角栄は5億円の賄賂を受け取ったとして逮捕・起訴され、懲役4年、追徴金5億円の実刑判決が出た。昭和60年に新潟の浦佐駅前広場に銅像が建った。今の若者に田中角栄が響いていることについて石破茂は「存在そのものが魅力だった。常人では及ばざるすごさが時代を超えていろんな人の心をとらえるんじゃないか」とした。
田中角栄について。賛否両論のある人物で池上彰は「目白御殿」などを例に否定的な面を指摘したが、尾上右近は賛否両論でこそ本物。賞賛だけを取ろうと思ったらリーダーにはなれないと評し、池上も破天荒な人がいなくなったとコメント。
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昭和47年12月23日に発表された漫画「サザエさん」では、田中角栄が掲げた「日本列島改造論」が題材になっている。「日本列島改造論」は田中が総裁選直前に書いたベストセラー。当時から九州新幹線や北海道新幹線、リニア中央新幹線を作るよう訴えていた。
経済界のリーダー、土光敏夫を紹介。明治29年に岡山で生まれ、大正9年に東京石川島造船所(後のIHI)に入社し社長となる。東芝の経営再建に尽力したほか、経団連の4代目会長を務めた。その清貧な生き様から「メザシの土光」と呼ばれた。
昭和を代表する実業家、土光敏夫。石川島重工業や東芝の再建に尽力したほか、経団連会長にも就任。人々を引き付けたのは清貧な生き様。私生活で質素な暮らしを続け、東芝の社長に就任してからは「経営危機にありながらトップだけが贅沢をして言い訳がない」と社長室のバスルームや専属コックを廃止させた。始業より30分早く出勤し、すべての社員と対話の機会を持った。
昭和を代表する実業家、土光敏夫。経団連会長だったころに秘書を務めた居林さんは「怖い人」と振り返る。初めて会ったとき、第一声で「不況が直らないのは君らが怠けているからだ」と叱責された。政府との折衝も同じ調子で臨み、政治献金は一切しなかったという。
昭和を代表する実業家、土光敏夫。84歳で行政改革のトップに任命される。このころ日本の財政赤字は急速に拡大していて、総理直轄の調査・提言期間が設けられた。土光が掲げたのは「増税なき財政再建」。公務員や補助金の削減に国鉄の民営化を推進させるにあたり各界から反発を浴びるも、国民からは支持された。有り金は学校に寄付、家も古いままだった。晩年、「来世に天国と地獄があるなら地獄行きを望む」「楽なところでのんびりするのは性に合わない」「あの世から日本の動きを監視していく」などと話している。
