第102代 内閣総理大臣の石破茂は田中角栄について、自治大臣などを歴任してきた父である石破二朗も田中のためになら死んでもいいと言うほど信頼し、実行力・決断力・判断力が図抜けており、父・二朗との最後の約束であった葬儀委員長も実現してくれていたなどと明かした。田中は葬儀を重んじており、葬儀は亡くなった人との最期の別れの機会だとして人目をはばからず故人を偲んでいた。石破は田中が約束は必ず守り、報いを求めない親切心で人々と接し、田中に頼んで無理なら仕方ないと誰もが思えていたなどと伝えた。田中は二田尋常高等小学校卒業後の初仕事は道路工事で、先輩の「土方は地球の彫刻家」だという言葉を励みにしていた。田中は16歳で上京し、19歳で土木建築会社を設立、25歳で田中土建工業を設立した。
田中角栄が政界に進出したのは昭和22年、28歳の時。昭和37年、44歳で大蔵大臣に就任。エリート官僚たちは懐疑的だったが、「全ての責任はこの田中角栄が背負う」という就任時の演説で空気は一変した。大蔵省の入省式では新人の顔と名前を覚え、声をかけたという。昭和47年、自民党総裁選で新総裁に選ばれた。石破茂は田中角栄について、「人を叱る時は1対1、褒める時はみんなの前だった」と話した。石破は24歳の時に「政治家になれ」と言われ、「歩いた家の数しか票は出ない、握った手の数し票は出ない」と言われたという。昭和51年に発覚したロッキード事件。田中角栄は5億円の賄賂を受け取ったとして逮捕・起訴され、懲役4年、追徴金5億円の実刑判決が出た。昭和60年に新潟の浦佐駅前広場に銅像が建った。今の若者に田中角栄が響いていることについて石破茂は「存在そのものが魅力だった。常人では及ばざるすごさが時代を超えていろんな人の心をとらえるんじゃないか」とした。
田中角栄が政界に進出したのは昭和22年、28歳の時。昭和37年、44歳で大蔵大臣に就任。エリート官僚たちは懐疑的だったが、「全ての責任はこの田中角栄が背負う」という就任時の演説で空気は一変した。大蔵省の入省式では新人の顔と名前を覚え、声をかけたという。昭和47年、自民党総裁選で新総裁に選ばれた。石破茂は田中角栄について、「人を叱る時は1対1、褒める時はみんなの前だった」と話した。石破は24歳の時に「政治家になれ」と言われ、「歩いた家の数しか票は出ない、握った手の数し票は出ない」と言われたという。昭和51年に発覚したロッキード事件。田中角栄は5億円の賄賂を受け取ったとして逮捕・起訴され、懲役4年、追徴金5億円の実刑判決が出た。昭和60年に新潟の浦佐駅前広場に銅像が建った。今の若者に田中角栄が響いていることについて石破茂は「存在そのものが魅力だった。常人では及ばざるすごさが時代を超えていろんな人の心をとらえるんじゃないか」とした。
