2026年4月6日放送 1:28 - 2:28 TBS

ドキュメンタリー「解放区」
八十年後のいまを生きる私たちにできること

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(オープニング)
オープニング

オープニング映像。

八十年後のいまを生きる私たちにできること
八十年後のいまを生きる私たちにできること

富山の入善町立飯野小学校にて佐藤進は小学生たちに富山大空襲のことを語り部として講演で伝えていた。2025年4月14日、佐藤は90歳の誕生日を迎えた。佐藤の孫である西田七虹は幼少期から佐藤から戦争の話を聞いて育ってきた。佐藤は10歳の頃、富山県富山市で富山大空襲にあい、家族全員で川に身を潜めて降り注ぐ焼夷弾から逃れた当時を振り返っていた。アメリカ・ニューオリンズにある国立第二次世界大戦博物館は、第二次世界大戦の戦勝国としてアメリカの戦果を後世に伝えるための場であり、燃え上がる富山市街地の写真も展示されている。富山に出現する直前のアメリカ兵たちの映像には、陸軍航空軍38周年を迎え、祝賀爆撃を行うという宣言が記録されている。アメリカ軍の作戦任務報告書には富山への爆撃中心地は軍需工場ではなく、人口密集地であったと記されている。1945年8月2日未明、174機のB-29が富山への攻撃を開始し、わずか2時間で52万発の焼夷弾が投下され、犠牲者は約3000人となり、市街地の破壊率は99.5%であった。

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2025年3月、佐藤は富山市立新庄中学校にて語り部として富山大空襲の講演を行い、同じく語り部である娘の亜希代がサポートしていた。亜希代が語り部デビューしたのは2年前であり、佐藤の孫である七虹も語り部となった。子どもたちに富山大空襲を伝えた七虹は、伝えられたかは不安だが伝えたいことは伝えることができたなどと語った。佐藤は娘や孫に負けないように語り部として活動していきたいのだと明かした。

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6月、新潟県長岡市で佐藤たちは3世代の語り部として講演に招かれていた。佐藤は5日前まで入院していたが無理してでも参加するのだとリハビリを励んで体調を調整し、講演に臨んでいた。佐藤たちは3世代で各々の目線から富山大空襲を伝えた。チューリップテレビはアメリカにて貴重音声を発見していた。

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チューリップテレビはアメリカにある米国国立公文書館にて貴重音声を発見していた。米国戦略爆撃調査団は終戦直後に空爆の効果を分析するために日本の市民3135人に聞き取り調査を行い、53人の富山市民が応じていた。富山にある桂書房の勝山は聞き取り調査をまとめるために長年膨大な資料を調べ続けている。聞き取り調査に応じていた男性の音声には、肉弾精神であるとしつつも指導者の進める戦争のやり方に疑問を抱き、負け戦だと感じていたと明かしている。戦時中の日本は厳しく言論統制され、公に負けるとは許されない発言であった。聞き取り調査に応じていた男性の音声には戦後の日本について、早く復興して自由で新しく生まれ変わって行かなくてはならないのだと話していた。

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2025年7月、戦後80年の夏に富山大空襲展が開かれていた。富山大空襲展は富山大空襲の体験社の証言や絵、写真で地獄のような一夜を追体験でき、様々な世代の人々が訪れていた。富山大空襲展に訪れた佐藤らはこうした機会は増やしていってほしいのだと語った。佐藤と同じく90歳の稲垣よし子は富山大空襲展にて語り部として当時を悲劇を語り伝えた。稲垣は毎朝の運動を元気の秘訣にしている。1940年頃の総曲輪通りでは大人に子どもたちも集まって運動し、1941年12月8日には真珠湾攻撃が発生した。稲垣は当時10歳で富山大空襲にあい、一時は防空壕に避難したが、東京大空襲を体験していた姉が防空壕では危ないと忠告し、一家は急いで外に避難し、川まで逃げ飛び込み、運よく生き延びたが、父が3日後に遺体で発見されたという。8月1日、富山大空襲の犠牲者を慰霊する鎮魂の花火が打ち上げられたが、佐藤は見に来ることができず、亜希代は今後のことも含めた頼んだぞと言われた気がしたなどと明かした。。

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広島市立基町高校では生徒たちが被爆者たちから体験談を聞いて原爆の絵を描いており、描くことで戦争の悲惨さを知り、記憶を繋いでいる。七虹は知ってほしい年代の人たちに伝わっていないということは薄々感じてきており、同じ高校生として一緒に描いていきたいなどと語った。富山国際大学付属高校でも富山大空襲の体験者たちの聞き取りを開始していた。9月25日、佐藤は七虹の通う高校に訪れ話を聞かせており、手術することになったのだと明かした。11月22日、亡くなった佐藤の葬儀が執り行われていた。富山大空襲を生き抜いた佐藤は映画は西部劇、音楽はジャズが好きでハイカラな青年時代を過ごし、高校卒業後は薬品関連会社に就職し、休日には仲間と登山を楽しんでいた。佐藤は定年後に料理にハマると料理教室に通い、自分専用の調理器具で家族に手料理を振る舞ってきた。佐藤が第二の人生を捧げた富山大空襲の語り部活動では、2001年から24年間で出前講座287回、2万2331人に体験を伝えてきた。生前の佐藤は日本も加害者であったのだという事実も伝えなければならないなどと告げていた。

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山形県山辺町にて七虹は富山大空襲を語り部として伝えていた。七虹は小さい頃から佐藤から話を聞いてきて印象に残っているのは、遅れて避難してきた佐藤の母が妹を抱きかかえて川に飛び込んでいる場面で、もし佐藤の母と妹が助かっていなければ佐藤の人生にも影響していたのだろうなどと語り、その場面を描いた絵を紹介した。生前の佐藤は七虹たちに伝えてきた話で母と妹が遅れて川に飛び込んだ場面は一番のクライマックスの話であるのだと語っていた。2026年3月、七虹は今日も学生たち相手に語り部として富山大空襲を語り伝えていた。

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(エンディング)
エンディング

エンディング映像。

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